2017年06月02日コラム

国史跡船迫窯跡出土の鴟尾(しび)

国史跡船迫窯跡では、平成7年度の堂がえり2号窯跡発掘調査で鴟尾の破片が発見されました。平成28年度には、その破片資料を基に奈良文化財研究所の大脇 潔 名誉研究員の監修によりその全形を復元し、高さ121cm・奥行93cm・最大幅76cmにおよぶ原寸大レプリカを製作しました。

鴟尾とは?

鴟尾は古代寺院や宮殿の大棟両端を飾る装飾瓦です。船迫の鴟尾には羽毛や鰭(ひれ)の形が刻まれ、風雨や雷を操るとされる鳳凰(ほうおう)の形を表現しています。大棟に鳳凰を表す鴟尾を載せることで、火災を引き起こす落雷と建物倒壊に繋がる大風などの災害を防ぐ魔除けの意味もあったのでしょう。

どこから日本に伝わったか?

国内で出土する鴟尾は鰭が先端を巡る「百済(くだら)様式」と、途切れる「初唐様式」に大きく分けられます。船迫窯跡の鴟尾は百済様式であり、豊前国の古代寺院の特徴である百済最終末期様式(西暦660年頃)の蓮華文を縦帯に施した装飾性豊かなものです。

どこで使用されていたか?

船迫窯跡の鴟尾は、7世紀後半に仲津郡(現在の行橋市東部からみやこ町の一部)の郡司層が建立した上坂廃寺(かみさかはいじ)で使用されていました。
大宝2年(702)の豊前国戸籍(正倉院文書)には仲津郡に、朝鮮半島と関わりの強い有力氏族「膳氏(かしわでし)」がいたことが記され、『続日本紀』には天平12年(740)、藤原広嗣の乱に際し、追討軍に加わった仲津郡の郡司「膳東人(かしわでのあずまびと)」の名前が見えます。
上坂廃寺では金堂または講堂の大棟に近隣では見られない朝鮮半島・百済様式の巨大な鴟尾が載せられており、「膳氏」が同寺創建に関わった可能性は十分考えられます。

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*船迫窯跡出土の鴟尾は、船迫窯跡公園体験学習館で展示しています。(月曜日休館)



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