2025年10月01日コラム
新発見!!伝藏内次郎作胸像 (Thought to represent )KURAUCHI Jirosaku
写真は、旧藏内邸で一般公開が始まった伝藏内次郎作胸像(ブロンズ製)です。
作者は日本を代表する彫刻家、朝倉文夫(1883―1964)で、背面署名から大正7年(1918)、朝倉35歳の時に制作されました。最近まで存在が忘れられた新発見作品で、京都芸術大学の仲隆裕先生(日本庭園史)が発見し、築上町に寄贈しました。
藏内次郎作(写真)は弘化4年(1847)に築上町上深野で生まれ、30歳代後半から筑豊地域で炭坑経営に携わりました。明治41年(1908)には衆議院議員に初当選し、連続5期務めました。その間に田川銀行や小倉鉄道(現日田彦山線)設立に貢献し、田川郡の発展に寄与した功績で鎮西原(田川郡の中央/田川市伊田)に新設される鎮西公園の一角に朝倉文夫による像高一丈六尺(4.85m)のフロックコートを身に着けた銅像が建立されました。
しかし、銅像は戦時中に金属供出され、消失しました。現在は台座のみが残り、戦没者慰霊碑となっています。
さて、朝倉が鎮西公園の銅像を制作する際の習作(練習に作る作品)が今回発見の胸像の可能性があります。
朝倉彫塑館(東京都台東区)発行の作品目録には、大正8年(1919)に藏内次郎作銅像とともに藏内着炭氏胸像が作られたと書かれ、後者が今回の作品の可能性が高いと考えられます。着炭は藏内次郎作のニックネームです。炭坑経営者であった藏内次郎作は、着炭代議士と呼ばれていました。なお、目録には大正8年とあり、署名と1年誤差がありますが、ブロンズ作品は原型制作し鋳造を行うため、作品完成日と署名とに誤差が生じることが多々あります。
ところで、胸像は当時71歳の次郎作にしては若すぎる感じがします。調査した日本大学の田中修二先生(近現代日本美術史)は次郎作の孫で、当時26歳の次郎兵衛(写真)を制作したと推定しました。
しかし、当時は次郎作の子、保房(1863―1921)が中心的存在で、父、保房を飛び越しその子、次郎兵衛の胸像を作るとは考えにくいことと、朝倉が対象を直に見ながら創作するスタイルを基本とすることから、次郎兵衛をモデルに、次郎作の若い頃を表現したのではないかと考えました。
岩崎高藏編1924年『藏内次郎作翁餘影』にはお茶目な一面を持ち、孫の次郎兵衛を溺愛する次郎作の姿が描かれます。鎮西公園の銅像を作る際、「習作を制作するなら、自分の若い頃の姿を残したい。そうだ。孫の次郎兵衛の顔形が自分の若い頃によく似ているから、次郎兵衛をモデルに作ればよい。」(想像)
胸像を見ていると藏内次郎作(71歳)と朝倉文夫(35歳)のそんな遣り取りが聞こえてくるようです。皆さんもぜひ直に作品をご覧ください。何か聞こえてくるかもしれませんよ。*『藏内次郎作翁餘影』の132頁に次郎作が次郎兵衛を溺愛する様子が描かれます。