2016年03月15日コラム

文久四年瓦と中津街道

文久四年瓦の発見

平成25年、築上町中央公民館の倉庫で小倉藩小笠原家の家紋「三階菱」を刻んだ大棟瓦が見つかりました。側面に刻まれた文字から文久四年(1864)に弓ノ師村の瓦屋が製作したことがわかり、古写真等から築上町椎田の延塚記念館が木造であった頃に使われた瓦であることが判明しました。延塚記念館は旧中津街道沿いの築城郡屋(郡奉行が政務を行う場所)の跡地に建てられています。

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中津街道と椎田宿

中津街道は小倉城下の常盤橋から中津城下を結ぶ全長十三里(52km)の主要幹線道路で、寛文年間(1661~1673)に細川忠興が整備したといわれ、街道の途中には7か所の宿場町が設けられました。
特に秋月道との分岐点にある椎田宿は東の椎田湊(藩の御蔵所が設置され、大坂方面の海運の拠点)とあわせて陸海交通の要衝地として栄え、また築城郡の中心として郡屋や御茶屋(藩や幕府の要人が休息する場所)が設置されました。

宇佐奉幣使と公共事業

文久四年(1864)は宇佐奉幣使(朝廷から宇佐神宮に派遣される勅使)が中津街道を通り宇佐神宮に派遣された年にあたります。小倉藩ではこれに先立ち、街道沿いの建物修理等の公共事業が実施され、そうした中で写真の瓦も新調されたものと考えられます。なお当時、小倉藩小笠原家の家紋である三階菱は郡屋などの公的な施設でのみ使用を許されました。その瓦が伝世して郡屋の跡地に建つ延塚記念館で再利用されたものと考えられます。

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