2017年08月12日コラム

鉄道と築上町 ― 森鷗外『小倉日記』【明治33年(1900)6月1日~7日】の記述から

明治の文豪 森鷗外 6泊7日鉄道の旅

午前九時小倉を発して大分に向ふ。徴兵の状を視察せんが為めなり。此行始て豊州線路(ほうしゅうせんろ)に由る。天晴れて風冷し。沿路麦圃(むぎばたけ)多く、又櫨樹(はぜ)の林を見る。」

鷗外が乗車した当時、朝9時に小倉駅を出発し、「午後一時四日市(宇佐)より汽車を下り」まで4時間を要しています。現在は普通列車でだいたい1時間50分、特急なら50分です。鷗外はよく行橋までは鉄道を利用したようですが、行橋以南に行ったのはこの時のみのようです。『小倉日記』によると、鷗外は四日市(宇佐)で鉄道を下車した後、人力車で宇佐神宮に参拝し、その後、馬車で日出に向かい、この日は日出で宿泊しています。翌日は別府亀川から電機軌道で大分に向かいました。この電機軌道は通称〝別大電車〟と呼ばれ、九州初の路面電車として明治33年に開業しました。鷗外は当時開業したばかりの電機軌道に大変興味を持ったようで、その形状や座席配置など細かく日記に書き記しています。4日に大分を発ちますが、ここからは馬車を乗り換えながら途中1泊して日田豆田に向かい、5~7日まで逗留しました。7日午前7時に人力車で耶馬渓に向かい、青の洞門などを見学した後、午後6時に中津駅から鉄道(豊州鉄道)に乗車し、小倉の自宅には午後9時に帰着しました。

当時の鉄道事情

豊州線路は現在のJR日豊本線のことで、小倉―行橋間は明治28年(1895)、行橋―柳ヶ浦間は明治30年(1897)に開通しました。開業当初は前者が「九州鉄道」、後者が「豊州鉄道」という別会社で、明治34年(1901)に合併し、さらに39年には国有鉄道になりました。鷗外が乗車した当時、椎田駅(図1の椎田停車場)はすでに現在地に開業しており、車窓から当時の椎田駅の様子を目にしたことでしょう。なお、築城駅は当時まだなく、昭和8年(1933)に開業しました。

築上町の車窓から

かつて椎田駅以南は車窓から海側を眺めると、図2のように砂浜に広がる旧中津街道の松林や豊前海に浮かぶ鬼塚など名勝三保松原(静岡県 みほのまつばら)を思わせる風光明媚な景色が広がっていました。徴兵検査の状況視察という陸軍軍医としての仕事ではありましたが、宇佐神宮参拝や大分・日田の文化人との交流を楽しみに乗車する車窓の景色に文豪 森鷗外は何を思い、感じたことでしょう。

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