2017年06月24日コラム

港湾都市「椎田湊」

古くは「絹富湊(きんとみみなと)」と呼ばれ、今居津(いまいづ)【行橋市今井】や八屋浦(はちやうら)【豊前市八屋】とともに重要な港湾として近隣地域の物流や交易に大きな役割を果たしました。

中世の椎田湊

椎田湊は、城井川と岩丸川が合流した河口に位置し、上流には豊前宇都宮氏の本拠地「城井谷」が控え、近くにある中世の居館跡 西高塚ナカバル遺跡をはじめ城井川沿いの中世の遺跡から出土している多彩な輸入陶磁器は椎田湊を介して移入されたとも考えられます。
『友枝文書』には享禄5(1532)年、豊前国守護 大内氏の御領分(直轄地)である椎田湊の管理責任者である友枝(ともえだ)隼人(はやと)佐(のすけ)が35戸の屋敷と29艘(うち4艘は役人船)の船から船銭や川口料等の税金を徴収していたと記されています。また、商人に命じて今居津の市場でこの徴収金を米に替え、大内氏への御料米として納め、海上輸送されていたことがわかります。

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江戸時代の椎田湊

江戸時代になると椎田湊には小倉藩の御蔵所が置かれました。ここには築城郡内の年貢米が集められ、必要に応じ小倉城下の表蔵に回送されました。なお直接大坂蔵屋敷に運ばれることもあったようです。(『小倉追書』安政2(1855)年による)
『築城郡絵図』によると、御蔵所は城井川の河口で、周防灘に面した場所に立地します。川沿いには荷が積まれている2艘の船が描かれています。その北西側には中津街道に沿って湊村の街並みがあります。現在も旧中津街道沿いに数軒の旧家が残されており、往時の景色を偲ぶことができ、大変貴重です。
中世・近世と椎田湊は港湾都市として、また中津街道の椎田宿とともに陸海交通の要衝地として栄えました。

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